赤川 次郎(あかがわ じろう、本名同じ、1948年2月29日。父は元満洲映画協会、東映プロデューサーの赤川孝一。
3歳の頃に手塚治虫の漫画に影響を受け、小学生の時には漫画を描き始めるも挫折。当時よく読んでいたジャンルに影響され、中世ヨーロッパの騎士の物語などを書いていた。空想好きの少年であったようで、恋愛も自分が空想していたとおりであったとエッセイに書いている。
父・赤川孝一は他に家庭を持っていたので別居しており、幼少時もほとんど顔を合わせていなかったが、転勤によって東京に引っ越したため、赤川は小学校の担任の薦めにより中高一貫教育の私立桐朋学園を受験することになる。無事に合格して進学したが、勉強も運動も苦手でなおかつ金銭的にも困窮していたため、楽しい学校生活ではなかった。高校2年生の時に孝一が退社してしまい収入源が完全に断たれたため、大学進学は諦め就職を決意。卒業後18歳で日本機械学会事務局編修課に就職し、主に機械工学の雑誌に掲載する学術論文を校正する仕事に従事する。しかし休日には誰かに読ませるあてもないまま、自らのために小説を書き続けていた。25歳で結婚し、2年後に娘が産まれる。この頃プロを目指すことを決意し、サラリーマン生活を続けながらシナリオを投稿するようになる。そして天知茂主演のテレビ朝日系テレビドラマ『非情のライセンス』のシナリオ募集に初入選する。ほとんど手直しされないまま放送され、初めて“脚本・赤川次郎”と名前が出て喜んだ反面、会社にはばれてしまった。1976年、28歳の時に「幽霊列車」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、小説家デビュー。1978年には当時主に社会派ミステリーを発行していた光文社カッパ・ノベルスから出版された『三毛猫ホームズの推理』が異色作としてヒットし脚光を浴びる。12年のサラリーマン生活を終え、30歳で専業作家となる。その直後に『セーラー服と機関銃』を発表した。1980年、『上役のいない月曜日』が第83回直木賞候補となる。その後も「三姉妹探偵団」シリーズや「杉原爽香」シリーズなど、さまざまな人気シリーズを生み出す。2016年にはデビュー40年目にして『東京零年』で第50回吉川英治文学賞を受賞した。
難解な表現をあえて避けた優しい文章と軽妙な表現を得意とし、余人に真似ができないスタイルを構築しており、2015年現在でも年に10冊の執筆をするなど創作意欲は衰えない。推理小説(ユーモアミステリー)のほか、ホラーや青春ものなど作品のジャンルは多岐に及ぶ。
誕生日が2月29日であるために、1987年に刊行された『三毛猫ホームズの登山列車』(カッパ・ノベルズ)の著者近影では「たったの10回。ゆえに正確には10歳」と記載されている。多い時には年に20作以上執筆していたこともあり、2006年8月に作家生活30年を迎え、執筆作品は480作に達した。その後も著作数は増え続け、2008年には500作。
オペラや演劇鑑賞を行い論評するなど、芸術評論も物し、評論集が出版されている。
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