三浦 浩(みうら ひろし、1930年10月19日 - 1998年3月24日)は、日本の作家。東京生まれ。
父はコーヒー店主の三浦義武。父親の出身地である、島根県浜田市の旧制浜田中学(現在、島根県立浜田高等学校)を卒業。1949年に京都大学文学部英文科に入学。同学在学中には高橋和巳・小松左京・北川荘平らと京大作家集団に在籍。この時期の活動については、のちに『記憶の中の青春 -小説・京大作家集団-』として小説化を行っている。
1953年に同学を卒業し産経新聞に入社、文化部に所属した。当時の文化部長は福田定一(のちの司馬遼太郎)であった。その後、文化面編集部長、論説委員などを歴任した。
産経新聞在職中より文筆活動を始め、1977年7月に上梓した『優しい滞在』が自身二度目となる第78回直木賞候補作となった。この作品は日本推理作家協会賞候補にもノミネートされている。78回直木賞は受賞作なしと決まったが、選考委員の柴田錬三郎は三浦の作品を強く推したと言われる。直木賞にはこの後もつごう四作を送り込んでいる。
1985年に産経新聞を定年退職し、執筆活動に専念した。
司馬遼太郎との親交が厚かった三浦は、1996年2月に司馬が死去すると鎮魂歌ともいうべき『菜の花の賦 -小説・青春の司馬さん-』『レクイエム 司馬遼太郎』(三浦編)を発表している。
三浦は喘息の持病があったが、1997年春頃から大病を患い壮絶な闘病生活を送った。病床で妻に口述筆記してもらった『司馬遼太郎とそのヒーロー』が絶筆となり。
「国際的なスケールを持つサスペンス作家」として評価されている。
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