中上 健次(なかがみ けんじ、1946年〈昭和21年〉8月2日 - 1992年〈平成4年〉8月12日)は、日本の小説家。妻は作家の紀和鏡、長女は作家の中上紀。
和歌山県新宮市生まれ。和歌山県立新宮高等学校卒業。新宿でのフーテン生活の後、羽田空港などで肉体労働に従事しながら作家修行をする。1976年『岬』で第74回芥川賞を受賞、戦後生まれで初めての芥川賞作家となった。
紀伊半島(紀伊)を舞台にした数々の小説を描き、ひとつの血族と「路地」(中上は被差別部落の出身で、自らの生まれた部落を「路地」と名付けた)のなかの共同体を中心にした「紀州熊野サーガ」とよばれる独特の土着的な作品世界を作り上げた。
主要作品に『枯木灘』(毎日出版文化賞、芸術選奨新人賞)『千年の愉楽』『地の果て 至上の時』『奇蹟』などがある。
1992年、腎臓癌の悪化により46歳の若さで死去した。
=
和歌山県新宮市で父、鈴木留造(とめぞう(千里)との間に私生児として生まれた。ちさとは、健次を妊娠中に、ある女性から、留造には他に女が二人いてそのうちの一人は妊娠しているという事実を知らされる。ちさとは留造と別れて一人で健次を産んだ。留造はこの女性と結婚し、この女性は健次の異母弟を産む。留造はこの女性との間にさらに二児をもうけたgroup="注釈"|中上の異母の妹・弟については『中上健次電子全集21』収録「中上健次年譜 作製・高澤秀次」によると中上には異母妹が二人、異母弟が二人いるとされている。また「犯罪者宣言及びわが母系一族」というエッセイではこう記したことがある。「図を描いたほうがわかりやすいのだが、母は三つの姓名(木下・鈴木・中上)を名のったのである。僕の兄や姉たちは最初の木下勝三(病死)(注:勝三ママ)の血をつなぎ、末っ子の僕だけが鈴木留造の子であった。放蕩者でバクチ好きの鈴木は、他に二人の女をつくって妊ませ、結局、僕には母千里の産みだした郁平(ママ)、鈴枝、静代、君代の四人と、鈴木留造が女どもに産ませた一人の妹と二人の弟、そしてどこにいるのか生きているのか死んでいるのかわからない幻の妹が一人と、血のつながった兄姉妹でも九人いる計算になる。かくて幼い僕は母につれられて、最後の「父」である中上七郎の庇護をうけ、「父」の子である中上純一らと家庭を構成することになる。」。
ちさとには死別した前夫の木下勝太郎との間に既に四人の子供がおり、留造と別れたあとは女手一つで行商をしながら子供たちを育てる『エレクトラ 中上健次の生涯』|p=28。1953年、ちさとは、後に健次の義兄となる男児と二人で暮らす中上(なかうえ)七郎と出会い、まだ7歳と幼かった末子の健次だけを連れて同居、四人での生活をはじめた『エレクトラ 中上健次の生涯』|p=43-44, 46。七郎はこの頃は日雇いの土木作業員であったが、のちに土建請負業者になる『エレクトラ 中上健次の生涯』|p=43, 46。
1953年、新宮市立千穂小学校に入学する。1959年、小学六年生の終わり頃、12歳年上の異父兄・木下行平(いくへい。行平の自殺は健次の大きなトラウマとなった『エレクトラ 中上健次の生涯』|loc=Kindle494-504/5492group="注釈"|兄の自死について安堵したり、恥ずかしいと感じたりしたことが、罪障感となってトラウマになっているgroup="注釈"| 中上の作品には、この出来事は繰り返し登場する。『一番はじめの出来事』『眠りの日々』(初出時タイトル『火祭りの日に』)『補陀落』『岬』『楽土』『鴉』『奇蹟』などである。彼の文業を貫く重要な主題であった。。
1962年、中学校卒業の直前、ちさとと健次は、七郎のもとに入籍するの言葉の通り、先行する優れた小説家、大江健三郎は作家として一人前になった中上の攻撃の対象となった。大江の海外文学理論を援用するブッキッシュな小説作法や、反核や戦後民主主義擁護のような理想主義的な言動を批判的に見た。両者は一度、文芸誌『新潮』において主に海外の文学や理論を巡って意見を交わす直接対談をしている(「多様化する現代文学」『中上健次全発言II -1978〜1980』所収)。晩年はフランクフルト日本ブックフェアのシンポジウム(1990)、共に選考委員を務めた三島賞の選考会など公的な場所で同席することも多かった。や石原慎太郎などの日本人作家の作品も読んでいる。。
from wikipedia(名前を用いての自動収集のため、別人の場合もあることをご了承ください)