山口 瞳(やまぐち ひとみ、本名同じ、1926年(大正15年)1月19日(戸籍上は11月3日) - 1995年(平成7年)8月30日)は、日本の男性作家、エッセイスト。
妹は日本舞踊家の花柳若奈(本名:栄)でジェリー伊藤の妻。作家で映画評論家の山口正介は息子。甥(弟・山口昭の子)にプロレスのレフェリーだったウォーリー山口(本名:山口雄介)。
1926年1月19日、東京府荏原郡入新井町(現:東京都大田区)に生まれる。ただし、同年同月に異母兄が生まれたため、戸籍には11月3日生まれとして届けられた。父親はアイディアマンの実業家。母親は横須賀の柏木田遊郭の経営者の娘で(ただし、その事実は、終生子供には隠していた。のちに山口は柏木田を舞台に『血族』を執筆)、美人で社交的で粋な女性。非常に雰囲気が明るく、交友関係も広く、派手な家庭であった。長唄三味線家元の杵屋勝東治、その息子である、後の若山富三郎、勝新太郎も出入りしていた。
父親の事業が一時失敗し、落魄して川崎の尻手付近に「都落ち」したこともあり、山口の中ではその赤貧時代が原風景としていつまでも残り、派手好きでありながら、一方で非常に謹直であるという複雑な性格の元となった。家族の間では「冷血動物」とあだ名されたという。
小学校時代は野球に熱中し、同級生に元東急フライヤーズ投手の黒尾重明がいた。旧制麻布中学を経て旧制第一早稲田高等学院を中退。
兵役の後、1946年に鎌倉アカデミアに入学し、在学中から同人誌に作品を発表。なお、鎌倉アカデミア時代には、歌人吉野秀雄に師事した。この時川端康成宅の隣に住み、養女の政子と親しくしていた。
国土社に入社し編集者となる。だが、正式の大学を出ていないことに対する劣等感を指摘され、師事していた高橋義孝から「正式な大学を出れば、もっと大きな出版社に紹介してあげる」と言われたことから、國學院大學文学部に入り、1954年に卒業。河出書房の「知性」編集部に勤務していたが、1957年3月に同社が倒産。同誌の続刊を図る編集長の小石原昭に従って新設の知性社に移るも、同誌は2号で廃刊となったため再び失職。
1958年、開高健の推薦で壽屋(現:サントリー)に入社。PR雑誌「洋酒天国」の編集や、コピーライターとして活躍する。ハワイ旅行が当たる懸賞のコピー「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」が代表作。
「婦人画報」に連載した『江分利満氏の優雅な生活』で、1963年に第48回直木賞を受賞、同作品は映画化もされた。受賞後しばらくは二足の草鞋を履いたが、「週刊新潮」の伝説的編集者斉藤十一からコラムの連載依頼を受けたことから、文筆業に専念するためにサントリーを退社。
代表作は、「週刊新潮」に1963年から31年間、延べ1614回、死去まで一度も穴を開けることなく連載を続けたコラム・日記の『男性自身』シリーズ、自らの両親の生い立ちを題材とした『血族』(第27回菊池寛賞受賞)、『家族』などがある。
『血族』は、1980年1月6日から2月3日まで、NHKテレビ「ドラマ人間模様」で脚本:早坂暁、音楽:武満徹、演出:深町幸男で全5回のドラマとして放送された(主演は小林桂樹)
競馬や将棋、野球に造詣が深く、全国の地方競馬場を踏破した『草競馬流浪記』、プロ棋士と駒落ちで対戦した記録『山口瞳血涙十番勝負』、プロ野球から草野球まで、野球に関するエッセイをまとめた『草野球必勝法』などの著書もある。
なお、山口の著書の表紙絵、挿絵は、その多くをサントリー時代からの友人である、柳原良平が担当している。
糖尿病を患っていたが、克服。晩年は小説の執筆をやめ、『男性自身』に集中して仕事をしていた。死の直前は肺癌が急速に悪化。直前まで本人には告知されなかった。家族がホスピスへ移すことを相談している最中に突然、状態が急変し、東京都小金井市の聖ヨハネ会桜町病院ホスピス棟にて死去。死が急であったため、結果的に、『男性自身』は「アナ空き」がないことになった。戒名は文光院法国日瞳居士。
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