稲垣 足穂(いながき たるほ、1900年12月26日 - 1977年10月25日)は、日本の小説家。
1920年代(大正末)から1970年代(昭和後期)にかけて、抽象志向と飛行願望、メカニズム愛好、エロティシズム、天体とオブジェなどをモチーフにした数々の作品を発表した。代表作は『一千一秒物語』、『少年愛の美学』など。
稲垣は1900年、大阪市船場に歯科医の次男として生まれた。7歳の頃から謡曲、仕舞を習う。小学生の時、祖父母のいる明石に移住し、神戸で育つ。1914年、関西学院普通部に入学。関西学院では今東光などと同級になった。小さいころから映画や飛行機などに魅了され、その経験をその後の作品に昇華させる。在学時に同人誌『飛行画報』を創刊。
1916年、夢だった飛行家を目指し上京。当時羽田で発足したばかりの「日本飛行学校」の第一期生を志望するが、強度の近視のため飛行練習生となることは叶わなかった。これは相当なショックだったようで、一度は自殺も考えている。
1919年、関西学院卒業後、神戸で複葉機製作に携わり後に再び上京する。出版社に原稿を送った後の1921年、佐藤春夫に『一千一秒物語』の原型を送付、佐藤の知遇を得て佐藤の弟の住まいに転居した。また同年の第2回未来派美術展に『月の散文詩』を出品し入選している。1922年には『チョコレット』『星を造る人』を『婦人公論』に発表。1923年に、『一千一秒物語』を「イナガキタルホ」の筆名で金星堂より刊行、モダニズム文学の新星として注目を集めた。しかし同年、関東大震災により西巣鴨に移った。
稲垣はこの前後、雑誌『文藝春秋』『新潮』『新青年』を中心に作品を発表、単行本も『星を売る店』(1926年)、『天体嗜好症』(1928年)と数冊ほど刊行され、1926年3月には『文藝時代』の同人に加わり、新感覚派の一角とみなされた。『WC』は横光利一の絶賛を得る。『文藝時代』同人のころには、稲垣と同じく同性愛研究家でもあった江戸川乱歩と出会う。
ところが、佐藤が菊池寛の作品を褒めたことにより「文藝春秋のラッパ吹き」と佐藤を罵倒、稲垣は寄宿していた佐藤の家を飛び出し、文壇から遠ざかっていった。1930年、家郷の明石へと移り、それまでの作品を整理、浄筆して『ヰタ・マキニカリス』にまとめる作業にかかる。1934年には父の死を受け衣装店を経営し、共同経営者の使い込みが発覚してこれを単独経営にするがこれも差し押えられ、その後は家賃の未払などもあって各所を転々とする。1936年に上京し、『弥勒』などを執筆、アルコール、ニコチン中毒により執筆も滞ったが、同時期に伊藤整、石川淳と交友を結んだ。文壇から離れた後は、主に同人誌で作品を発表しつづけたが極貧の生活を送り、出版社からも距離を置かれた。
1950年、篠原志代と結婚し京都に移った。稲垣もそれまでの著作の改稿を始め、『作家』に160編など精力的に作品を発表する。佐藤没後の1968年、三島由紀夫(ちなみに、三島は『小説家の休暇』において「稲垣足穂氏の仕事に、世間はもつと敬意を払はなくてはいけない」とし、「昭和文学のもつとも微妙な花の一つである」と讃辞を送っている、1969年から『稲垣足穂大全』(全6巻)が刊行され、一種の「タルホ」ブームが起きた。
1977年10月25日、結腸ガンで入院していた京都市東山区の京都第一赤十字病院で急性肺炎を併発し死去した。享年76。戒名は釈虚空といった。
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