江藤 淳(えとう じゅん、1932年〈昭和7年〉12月25日 - 1999年〈平成11年〉7月21日)は、日本の文芸評論家。東京工業大学、慶應義塾大学教授を歴任。学位は、文学博士(慶應義塾大学)。日本芸術院会員。本名:江頭 淳夫(えがしら あつお)、身長160センチ。
学生時代に発表した『夏目漱石』(1956年)で注目され、『作家は行動する』(1959年)、『小林秀雄』(1960年)で文芸評論家としての地位を確立。『アメリカと私』(1965年)など文明批評も多い。
戦後日本の著名な文芸評論家で、小林秀雄没後は文芸批評の第一人者とも評された。20代の頃から長らく文芸時評を担当し、大きな影響力を持った。20代で『奴隷の思想を排す』、『夏目漱石』を上梓し、特に前者の『奴隷の思想を排す』は、日本の近代的自我に対する批判を描き出し、吉本隆明を始め多方面の文学者に大きな影響を与え、1960年代初頭から、大江健三郎・司馬遼太郎らと共に気鋭の新人として注目され始める。アメリカ留学前後から、文壇・論壇での活動を本格化させ、1966年(昭和41年)に遠山一行・高階秀爾・古山高麗雄の4名で『季刊藝術』を創刊・主宰。1969年(昭和44年)末から約9年間に渡り毎日新聞の文芸時評を担当。
『小林秀雄』(講談社)により新潮社文学賞受賞、『漱石とその時代』(新潮選書)で菊池寛賞と野間文芸賞を受賞している。代表作『成熟と喪失』は第三の新人の作品を素材にして文学における母性について論じた代表作である。
1976年(昭和51年)に第32回日本芸術院賞を受賞し、1991年(平成3年)に日本芸術院会員に選出。1994年(平成6年)から日本文藝家協会理事長。日本文学大賞、文學界新人賞、群像新人文学賞、文藝賞、三島由紀夫賞などの選考委員を務めた。江藤淳というペンネームが本名に由来していることは明白だが、本人の言では「照れ隠しのようなものにすぎない」という。初め「あつし」と読ませていたがいつのまにか「じゅん」と読まれるようになった。なお1941年(昭和16年)から1948年(昭和23年)まで鎌倉市極楽寺に、戦後は市ヶ谷加賀町など都心部での在住を挟み、1980年(昭和55年)以降は、鎌倉市西御門に居住し、鎌倉文士に加わった。
明治国家を理想とする正統的な保守派の論客として論壇で異彩を放つようになり、しばしば戦後保守派や新保守主義派の論客とは対立した。一般的には、文学者としての立場から「父性原理」や「治者の理論」にこだわり、敗戦による時代と国家の喪失の物語を自らの体験に重ねて作為し、戦後神話の解体を通して主体の回復に挑んだ稀有なる個性を、文学史と思想史の交点に描き出す事を論点とし、三島由紀夫や清水幾太郎、福田恆存らとはしばしば対比された。作家を評価する際には思想性にはこだわらず、思想的な立場の異なる左派の中野重治などを積極的に評価し、文壇に登場して間もない頃の石原慎太郎などをいち早く発見した。
アメリカ東部のプリンストン大学で在住研究で得た経験から、巨大なアメリカ社会とどう向き合うかという主題に生涯取り組み、戦後日本における西欧模倣の近代化を他の言論人に先駆けて鋭く批判した。なお、同地で留学中、三島由紀夫から5点の書簡を受け、自作長編『美しい星』の英訳本刊行への助力などを求められている。
『諸君!』1970年1月号のエッセイ「『ごっこ』の世界が終ったとき」では、全共闘運動を「革命ごっこ」、三島由紀夫の楯の会運動を「軍隊ごっこ」と斬り捨てた。同年秋の三島自決(三島事件)の後に、小林秀雄と行った対談「歴史について」では、「三島由紀夫は、一種の病気」であると断言し、吉田松陰的に崇拝されていく三島像を明確に否定する考えを表明した。約四半世紀を経て平成に入り「憂国忌」発起人に参画するなど、三島事件に対する考えが変化し、晩年に『南州残影』の取材で、蓮田善明の故郷(植木町、現・熊本市北区)で、西南戦争激戦の地田原坂を訪れた江藤は、蓮田が三島の才を評価していたことに触れながら、2人が西郷隆盛に発する自裁と国士の系譜にあると論じている。
江戸城無血開城に際し敗れた幕府側の人間でありながらも、理想的な治者としては勝海舟を見出し、松浦玲と共に『勝海舟全集』(講談社)の編纂に参画。評伝『海舟余波』も著し、近代史の激動変転の中で、滅び去っていく死者や敗者への挽歌を綴った。「文藝春秋」に『海は甦える』を長期連載し、薩摩藩出身の山本権兵衛を軸に、開国からの日本海軍の創立・興隆にいたる過程を描いた長編歴史文学となった。平成期には「文學界」に西郷南洲の伝記『南洲残影』を連載した。
1970年代後半からの『忘れたことと忘れさせられたこと』・『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』・『一九四六年憲法-その拘束―その他』などで、GHQによる戦後日本のマスコミへの検閲、GHQの呪縛から脱却できない戦後民主主義を鋭く批判した。のち1991年初頭に湾岸戦争が勃発し、アメリカの全面勝利で終結すると、「SAPIO」(小学館)誌上で湾岸戦争中のアメリカの検閲を取り上げ、それが、日本占領下にアメリカが行なった検閲に酷似している事を指摘した。
日本人の在り方や国語文化について積極的に発言し、『自由と禁忌』(河出書房新社)では、「アメリカを代表する占領軍当局によって、このように『存在させられている』のであり…」とし、日本は実質的に独立国家ではなくなっていると主張。また、アメリカ政府が極秘で日本弱体化計画(「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」略称・WGIP)を進めていたと主張し続けた(江藤は歴史家の立場から発言しているわけではない。江藤以外にも「WGIP」が存在しているとする主張がある)。
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