河上 徹太郎(かわかみ てつたろう、1902年〈明治35年〉1月8日 - 1980年〈昭和55年〉9月22日)は、日本の文芸評論家・音楽評論家。日本芸術院会員、文化功労者。
ヴァレリーやジイドを翻訳紹介しフランス象徴主義の影響下に評論活動を展開、近代批評の先駆者となる。シェストフの紹介者でもあった。小林秀雄、中原中也、大岡昇平、青山二郎、諸井三郎、吉田健一、白洲次郎たちとの親交も有名。なお夫人アヤ(綾子)は男爵・大鳥圭介の孫にあたる。
父邦彦は日本郵船の造船工学技師。父の赴任先の長崎市に生まれる。本籍地は山口県岩国市。河上家は江戸時代は、岩国藩士であった。祖父逸は勝海舟、今北洪川、玉乃世履らに師事した。河上肇は親類にあたる。
1908年(明治41年)、神戸市立諏訪山小学校に入学。1914年(大正3年)、旧制兵庫県立第一神戸中学校に入学。1916年(大正5年)、旧制東京府立第一中学校に編入学、同級に富永太郎、1年下に小林秀雄。
1923年(大正12年)、東京帝国大学経済学部に入学。1924年(大正13年)、『月刊楽譜』誌に音楽評論「音楽に於ける作品美と演奏美」を発表。1925年(大正14年)12月、富永太郎死去。1926年(大正15年)、東京帝国大学経済学部卒業後、3ヶ月のみ東京帝国大学文学部美学科に在籍。河野與一のライプニッツ講義に出席。
1927年(昭和2年)10月、諸井三郎らと7名で「樂團スルヤ」を結成。1929年(昭和4年)4月、同人雑誌『白痴群』創刊、編輯人となる。同年6月、『白痴群』2號にヴァレリー「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法論序説」を訳出。1930年(昭和5年)5月、同人雑誌『作品』創刊、同人となる。同年6月、『作品』2號に「自然人と純粋人」を発表。同年8月、『作品』に「羽左衞門の死と變貌についての對話」を発表。1931年(昭和6年)、英国から帰った吉田健一が親戚の病気見舞に行き、河上吉田健一 対談集成|1998|p=435と出会い、以後河上に師事。1933年(昭和8年)、『改造』3月号に「樂壇解消論」を発表。物議をかもす。
1934年(昭和9年)、シェストフ『悲劇の哲學』と『虚無よりの創造』を刊行。文壇に「シェストフ的不安」の語を流行させる。1935年(昭和10年)6月、ヴェルレーヌ『叡智』訳を出版。
1936年(昭和11年)、『文學界』1月号より同人に参加。同年3月、牧野信一死去。1937年(昭和12年)8月、軽井澤滞在中に、中原中也から「辞世みたいな手紙」が来る。同年10月、中原死去。同年12月以降は、『文學界』編集の主担当となったが、石川淳「マルスの歌」で1938年(昭和13年)1月号が発禁処分、罰金刑になる。同年12月、『音樂と文化』を刊行。これを契機に山根銀二と論争。1940年(昭和15年)1月、『婦人公論』に「新聖書講義」の連載を開始。同年7月、『道徳と教養』刊行。
1942年(昭和17年)5月、国策団体である日本文学報国会評論部門幹事長に就任し、やがて審査部長となる。同年10月号の『文學界』で行った反西洋的なシンポジウム「近代の超克」に司会進行のの立ち位置で参加した。1943年(昭和18年)8月、雑誌『批評』同人に参加。
1945年(昭和20年)10月、東京新聞に「配給された自由」を寄稿。革新派陣営より論難を受ける。1947年(昭和22年)11月、旧称都築ヶ岡と呼ばれた多摩丘陵の一角である川崎市片平に居を定める。1950年(昭和25年)9月、郷里岩国の錦帯橋の流出を折から帰省中で見ることとなる。
1952年(昭和27年)2月、初めて放送(JOKR)で、ピアノの演奏を披露。同月発行の『創元音楽講座 總論篇』に「音楽に於ける独創」を寄稿。1953年(昭和28年)8月から9月にかけ、英国外務省の招きで福原麟太郎、池島信平、吉田健一と共に、自身初の海外渡航、ロンドン、マンチェスター、スコットランドを見学したのち、パリまで回って帰国。
1954年(昭和29年)に『私の詩と真実』で、読売文学賞(評論部門)を、1960年(昭和35年)に『日本のアウトサイダー』で、新潮社文学賞を受賞。1961年(昭和36年)、日本芸術院賞を受ける。1962年(昭和37年)7月「吉田松陰 明治維新の再評價」を発表。自らが提唱する「硬文學論」の実践の皮切りとなる。1963年(昭和38年)に日本芸術院会員。1968年(昭和43年)に『吉田松陰 武と儒による人間像』により野間文芸賞を受賞。1971年(昭和46年)に『有愁日記』で第3回日本文学大賞を受賞。1972年(昭和47年)10月、文化功労者、同年12月、岩国市名誉市民に推挙された。1977年(昭和52年)2月、『歴史の跫音』刊行。翌3月に『わがドストイエフスキー』刊行。同年8月、吉田健一が急逝、友人代表として密葬にてラフォルグの詩の一節を誦んで別れを告げた。
1980年(昭和55年)、肺癌のため築地の国立がんセンターで没したが葬儀司宰しカトリック葬。郷里岩国市でも葬儀が行われた。
from wikipedia(名前を用いての自動収集のため、別人の場合もあることをご了承ください)