陳 舜臣|ちん しゅんしん|1924年2月18日 - 2015年1月21日は、推理小説、歴史小説作家、歴史著述家。位階は従四位。
代表作に『枯草の根』『阿片戦争』『太平天国』『秘本三国志』『小説十八史略』など。
神戸市出身。本籍は台湾台北だったが、1973年に中華人民共和国の国籍を取得し、その後、1989年の天安門事件への批判を機に、1990年に日本国籍を再び取得している。日本芸術院会員。
長男は写真家の陳立人(1952年 - )。姪(四弟・陳仰臣の娘)に兵庫県立大学教授からノートルダム清心女子大学教授となり、華僑の歴史研究を行っている陳來幸。妹の陳妙玲は、1950年代に「愛国華僑」として中華人民共和国に移り住み、撫順の戦犯管理所の日本語通訳をつとめ、のち北京ラジオに勤務した。
神戸の元町に生まれる。神戸市立第一神港商業学校(後の神戸市立神港高等学校)を経て、1941年大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)印度語学科に入学、印度語(ヒンディー語)とペルシア語を専攻。一学年下に司馬遼太郎(蒙古語科)、俳人の赤尾兜子(中国語科)がおり、司馬遼太郎とは生涯親密な関係を持った。少年時代は江戸川乱歩に親しみ、大学時代はコナン・ドイルやチェスタトンを乱読し、専攻のペルシャ文学ではラシード『集史』を愛好していた。1943年同校を繰り上げ卒業、同校に附設の西南亜細亜語研究所の助手となりインド語辞典の編纂作業などに従事する。
終戦にともない日本国籍を喪失し、退職。家業の貿易業に従事。東洋史学者宮崎市定の門弟に師事、宮崎の孫弟子にも当たる。1948年に一時台湾に帰国し、台北県(現:新北市)新荘中学英語教師、翌年神戸に戻り貿易業に従事。1950年に蔡錦墩と結婚。
1957年頃から小説の習作を始め、1961年に処女作である、神戸を舞台にした長編推理小説「枯草の根」で江戸川乱歩賞を受賞後、作家生活に入る。『宝石』『講談倶楽部』『小説中央公論』などで作品を発表。江戸川乱歩賞、1969年に「青玉獅子香炉」で直木賞、1970年に「玉嶺よふたたび」「孔雀の道」で日本推理作家協会賞を受賞し、ミステリ作家として初の三冠王となった。「枯草の根」の探偵役、神戸在住の華僑で中華料理店「桃源亭」の経営者陶展文は、「三色の家」「割れる」「虹の舞台」などでも活躍し、シリーズ作品となっている。
「青玉獅子香炉」で台湾の国民党の腐敗や国共内戦での敗北を描き、また1962年刊行の『怒りの菩薩』でも台湾における国民党の民衆弾圧を描き、1960年代の時点で中華民国の国籍を保有していたが、ブラックリスト入りして台湾訪問が不可能になった。
1967年『阿片戦争』の他、1972年の日中国交回復から中国各地、シルクロードなどを旅行し、中国の歴史を題材にした歴史小説、史伝、紀行文を多く書き、日本における「中国歴史小説」ジャンルを確立し、多くの読者を持っている。『中国任侠伝』『唐代伝奇』など、中国古典を翻案した物語作品も多い。また小説の他に『中国の歴史』をはじめとする一般向けの中国史も多数執筆している。中国における仏教、イスラム教、キリスト教などにも言及したものになっている。鄭芝龍や、鄭成功父子の活躍を描いた、海洋ロマンとも言うべき『風よ雲よ』(1973年)『旋風に告げよ』(1977年)もある。自伝的小説『青雲の軸』ではインドへの共感を語っており、インド独立運動家チャンドラ・ボースを題材にした『虹の舞台』や、ムガル帝国を舞台にした『インド三国志』なども執筆している。琉球史を扱った『琉球の風』は1993年NHK大河ドラマ原作となる。『ルバイヤート』の翻訳でも知られる。
1994年に脳内出血で倒れ、5ヶ月の入院ののち、神戸の自宅マンション「オーキッドコート」で阪神・淡路大震災に遭うが被害は小さく、1995年からは『チンギス・ハーンの一族』を連載。琉球や異国文化への憧憬は強く、山下智之らにこのころも影響を与えた。2014年、陳舜臣アジア文藝館が神戸市中央区に開館。
2015年1月21日午前5時46分、老衰のため、神戸市内の病院で死去。1924|2|18|2015|01|21。没後に従四位を追叙された。
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