李 恢成(り かいせい、イ・フェソン、ko|이회성、1935年2月26日 - 2025年1月5日)は、在日コリアンの小説家。1972年に芥川賞を受賞した。
樺太真岡郡真岡町出身。1945年の敗戦後、家族で日本人引揚者とともに樺太より脱出。長崎県大村市の収容所まで行き、朝鮮への帰還を図ったが果たせず、札幌市に住む。このとき、樺太に姉を残留させたことが、その後の作品内でもトラウマとして残っていたことが語られている(在樺コリアン参照)。
北海道札幌西高等学校から、早稲田大学第一文学部露文科に進学。早稲田大学時代は留学生運動の中で活動していた。大学卒業後、最初は朝鮮語による創作をめざしたが果たせず、日本語での活動を志す。
朝鮮総連中央教育部、朝鮮新報記者を務めた後、朝鮮総連から離れ、1969年の群像新人文学賞受賞を機に作家生活に入る。
1972年1月、『砧をうつ女』によって日本文壇初の外国人として、第66回芥川賞を受賞した。代表作に『見果てぬ夢』『百年の旅人たち』など。
1970年にひそかに訪韓した後、芥川賞受賞後の1972年に再び訪韓する。このときは朝鮮籍であった。しかし、その後は長期にわたって韓国政府当局から入国を拒否された。
1974年4月、韓国で朴正熙の独裁政権に反対するデモを起こした大学生らのうち180人が拘束される「民青学連事件」が発生。同月16日夕方から19日にかけて李恢成、金石範、金時鐘、真継伸彦、南坊義道らは数寄屋橋公園でハンガー・ストライキを行った。同月21日に金芝河の刑は無期懲役に減刑された。
1975年、中央公論社の宮田毬栄から依頼を受け、金芝河の作品集『不帰』を翻訳。
1995年11月に韓国入国ができたが、その後も、国籍問題を理由に何度も韓国当局との間で入国をめぐるやりとりがあった。
1998年、金大中政権発足を機会に、韓国国籍を取得した。この経験と、韓国籍取得にからんで金大中政権の発足によって大韓民国は民主化したと表現した李恢成に対し、朝鮮籍を「北でも南でもない『準統一国籍』」と考える作家・金石範が批判し、両者は雑誌媒体を通して論争を繰り広げた。
2025年1月5日、誤嚥性肺炎のため東京都内の病院で死去。89歳没。
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