広津和郎
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経歴
広津 和郎(廣津 和郎、ひろつ かずお、1891年(明治24年)12月5日 - 1968年(昭和43年)9月21日)は、日本の小説家、文芸評論家、翻訳家。日本芸術院会員。明治期に活動した硯友社の小説家・広津柳浪の子。
早大英文科卒。奇蹟派の中心。評論から小説に転じ、虚無的な人生を描いた『神経病時代』(1917年)が評価される。批評や文学論争でも耳目を集める。作品に『やもり』(1919年)、『風雨強かるべし』(1936年)など。
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1891年(明治24年)
*広津柳浪と須美(旧姓・蒲池)の次男として、東京牛込矢来町にて生誕。2歳年長の兄・俊夫がいた。
1898年(明治31年)7歳
*東京市立赤城小学校入学。
*母・須美が結核で病死した。享年27。
*この頃、中村吉蔵が寄寓し、永井荷風が父・広津柳浪に弟子入りした。
1900年(明治33年)9歳
*東京牛込弁天町に転居、以後頻繁に東京市内を移転した。
1902年(明治35年)11歳
*父・広津柳浪が再婚し継母・潔子を迎えた。
1904年(明治37年)13歳
*麻布中学校に入学、病弱で欠席がちだった。
*東京麻布霞町、笄町に転居した。
1905年(明治38年)14歳
*東京麻布霞町に転居した。
*雑誌『女子文壇』に短文「不眠の夜」を投稿、特別賞を得た。
*この頃、同級生だった伊達順之助・石田幹之助・細川潤一郎などと知り合う。
1907年(明治40年)16歳
*正宗白鳥の『妖怪画』を読み小説に関心をもつ。
1908年(明治41年)17歳
*『微笑』が「万朝報」の懸賞小説に当選、賞金10円を得た。
1909年(明治42年)18歳
*麻布中学校を卒業。
*早稲田大学文科予科に入学、同級生に谷崎精二・白鳥省吾・今井白楊・青山杉作・坪田譲治・日夏耿之介らがいた。
*父・広津柳浪は流行作家ではなかったので収入も少なく一家の生活は困窮していた。和郎は大学在学中には翻訳などで原稿料を稼ぐようになっていた。この頃、健康法として岡田式静坐法を始めた。
1910年(明治43年)19歳
*早稲田大学英文科に進学。
1912年(明治45年/大正元年)21歳
*雑誌出版の参考意見を聞くために、舟木重雄らと共に志賀直哉を訪ねた。
*舟木重雄を中心に葛西善蔵・光用穆・相馬泰三・峯岸幸作(後に谷崎精二)らとともに、同人雑誌『奇蹟』を創刊した。(翌年、第7号で廃刊)
1913年(大正2年)22歳
*早稲田大学を卒業。
*一家の生活が窮乏し東京麻布霞町の借家から追い立てられ、麻布本村町に転居した。
*徴兵検査で「第一乙種砲兵」と判定された。
*生活費を稼ぐためにギ・ド・モーパッサンの『女の一生』を翻訳して植竹書院から出版した。
1914年(大正3年)23歳
*補充兵教育召集で3ヶ月召集されたが、結核の疑いで世田谷の衛戍病院入院となった。
*父・広津柳浪が結核になり継母とともに名古屋に転地療養することになり、生活の必要から父の紹介で毎夕新聞に入社した。
*東京麹町永田町の永田館に下宿した。
*翻訳の仕事を求めて宇野浩二が訪ねてきた。葛西善蔵が一時同居した。
*毎夕新聞に連載記事「須磨子抱月物語」を執筆した。
1915年(大正4年)24歳
*年上の下宿の娘・神山ふくと男女の関係となり煩悶した。
*毎夕新聞を退社し、相馬泰三の紹介で植竹書院翻訳部に入社した。
*宇野浩二と共に三保の松原に旅行しトルストイの『戦争と平和』を翻訳した。(翻訳終了で植竹書院退社)
*父・広津柳浪の作品集の印税を届けに名古屋の父の元へ行き、父を知多半島の師崎海岸に転地療養させた。
*東京へ戻り、神山ふくと距離をおくために西片町の宇野浩二の家に同居、鍋井克之・沢田正二郎・渡瀬淳子・江口渙・永瀬義郎・広島晃甫らと交際した。
*兄・俊夫が会社で使い込みをしたことが発覚、病身の父・広津柳浪が善後策を相談するために上京してきた。
*神山ふくが妊娠したので東京池上の農家で出産させることにした。
*父の療養費・娘の出産費などを賄うために茅原華山が主宰する雑誌『洪水以後』に入社し文芸時評を担当、文芸批評家として注目されるようになる(翌年、廃刊)。
*神山ふくが長男・賢樹を出産した。
1916年(大正5年)25歳
*予備召集で3週間召集された。
*兄・俊夫のとった行動が原因で永田町の下宿に戻った。
*雑誌『新潮』の編集者中村武羅夫から文芸評論の執筆を依頼され、以後『文章世界』・『時事新報』・『読売新聞』にも執筆するようになる。
*神奈川県江ノ島の片瀬龍口寺付近に神山ふくと長男・賢樹、知多半島の師崎から父母を迎え家をもった。
*神奈川県鎌倉坂の下に転居した。
1917年(大正6年)26歳
*雑誌『トルストイ研究』に「怒れるトルストイ」を発表、トルストイの道徳・教訓を厳しく批判した。
*神山ふくと父母との折り合いが悪いため父母を鎌倉に残して永田町の下宿に転居した。
*正宗白鳥の紹介で雑誌『中央公論』主筆・滝田樗陰と知り合う。
*雑誌『中央公論』に「神経病時代」を発表、文壇的処女作となった。
*若い文学者の会合「三土会」に参加し芥川龍之介・菊池寛・佐藤春夫・久米正雄などと知り合う。
*この頃、有楽町のカフェでM子と知り合う。
*この頃、岩野泡鳴の主催する十日会にしばしば参加した。
1918年(大正7年)27歳
*神山ふくとの婚姻届を出した。
*長女・桃子が生まれた。
*宇野浩二の「蔵の中」発表のために奔走した。
1919年(大正8年)28歳
*宇野浩二の誘いで原稿執筆のために三保の松原に行きスペイン風邪に感染した。
*雑誌『中央公論』に「死児を抱いて」を発表した。
*M子とともに信州の渋温泉を経て奈良に旅行、画家・鍋井克之の紹介で大阪で画家・小出楢重と知り合う。
*妻・ふくと別居、長男・賢樹、長女・桃子はふくが引き取った。
1921年(大正10年)30歳
*雑誌『人間』に小説を執筆したことがきっかけで直木三十五と知り合う。
*東京本郷の下宿八重山館の近所に久米正雄の家があったために菊池寛と知り合う。
1923年(大正12年)32歳
*友人と出版社・芸術社を作り、『武者小路実篤全集』を出版するが失敗し借金を抱えた。
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受賞
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