北 杜夫(きた もりお、本名:斎藤 宗吉〈さいとう そうきち〉、1927年〈昭和2年〉5月1日 - 2011年〈平成23年〉10月24日)は、日本の小説家、エッセイスト、精神科医、医学博士。位階は従四位。
祖父は医師で政治家の斎藤紀一。父は紀一の養子で、歌人で医師の斎藤茂吉。兄はエッセイストで精神科医の斎藤茂太。娘はエッセイストの斎藤由香。
東北大学医学部を卒業。精神科医のかたわら、『文芸首都』に参加。水産庁調査船の船医の体験をユーモラスに描いた『どくとるマンボウ航海記』(1960年)で好評を得、以後「どくとるマンボウ」ものを次々に発表した。
『夜と霧の隅で』(1960年)で芥川賞を受賞。『楡家の人びと』(1964年)は、近代における最初の市民小説と高く評価された。
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東京市赤坂区青山南町に、父・茂吉、母・輝子の次男として生まれた。生家は母・輝子の実父・斎藤紀一が創設した精神病院「青山脳病院」であった。
少年時代は昆虫採集に熱中する日々を送り、文学には興味を抱かなかった。
青南小学校では4年まで金免状の優等生だったが、腎臓病による病欠で5年から劣等生となり、府立一中の受験を断念した。麻布中学時代の成績は259人中6番であった。麻布では不良グループの一人につきまとわれ、手の指の間に指を挟まれて締めつけられるなどのいじめを受けた。国語で、勝俣久作の指導を受けた。部活動では理科学研究部博物班(現:生物部)に入り、当時部長であったフクロウこと橋本碩(後に静岡大学名誉教授・生物学者)の指導を受け昆虫採集にのめり込んでいった。特にコガネムシ類を集中的に蒐集し、種類数で日本産の約8割・標本箱100箱分あった。部の1級上には後年の文芸評論家・奥野健男がいた。
戦中から戦後の混乱の最中。先輩に辻邦生がおり、終生の付き合いとなる。当時の松高にはマンの翻訳で名高い望月市恵がドイツ語教授として在任しており、マンの研究者としてはもとより、その人柄や教育者として望月のあらゆる面に強く尊敬の念を抱き、卒業後も交流は続いた。文学以外には卓球部のキャプテンを務め、インターハイに出場した。高校の寮祭(思誠寮の西寮)に際しては、対外宣伝部なるものを立ち上げ、街頭での演説および寸劇の演出を自ら行うなど、来場者拡大のための運動を精力的に行った。また、松本高校を志望する理由の一つであった日本アルプス登山に頻繁に挑むなどして高校時代を過ごす。ただし、川原の石をリュックサックに詰めて毎日10キロを歩かせるといった訓練に恐れをなし、山岳部には参加しなかった。
父・茂吉の短歌の素晴らしさに触れた北は、それまでは恐ろしいカミナリ親父、頑固親父としか思っていなかった父親を優れた文学者として尊敬するようになった。しかし、進路を決める際、志望外であった医学部へ進学することを一方的に厳命され、ささやかな抵抗や交渉を試みるも父の威力を覆すことは敵わず、1947年(昭和22年)に東北帝国大学から改称したばかりの東北大学(1949年に新制大学に移行)へ進学した。当時は精神科医では食べて行けないと思われていたため、父からは外科医になることを望まれていたが、霰粒腫の手術を見て気を失いかけ、外科に進むのを断念した。概ね戦後占領期に当たる1948年(昭和23年)から1953年(昭和28年)までの5年間を進駐軍のキャンプが集中し、GIたちが跋扈する仙台市で過ごしたが、市内の支倉町(明治期に島崎藤村が詩作を始めた地)で下宿をしていたと自身の随筆に記している。『トニオ・クレーゲル』の影響で大学時代に小説を書き始めた。大学生活を始めた頃、本屋の店頭で同人雑誌『文藝首都』を見つけ、早速投稿し、不採用となった。なんというダメな雑誌だと思ったが、次の掌篇「百蛾譜」の投稿が1950年(昭和25年)4月号に活字になったので、すぐ会員になり、続いて原稿を送っていたところ、やがて本欄に掲載するという通知をもらい、「パンドラの匣」、「牧神の午後」の発表が叶って同人となる。また、さまざまな雑誌の懸賞に応募したが、片端から落選し、一度だけ1人(横尾秋夫 1896-1981、医学博士)だけで発行している会社(千駄ヶ谷にあったクラブ社)のカストリ雑誌「動く小説と実話」に代作者(加藤武夫の名前による「手紙」という短編)として採用され1枚30円の稿料を貰ったのが職業作家としての第一歩だったが、本屋で探しても売っておらず、上野駅の地下道で露店販売されているのを1回見つけたのみであった。その後すぐにクラブ社自体が無くなった。
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