佐多 稲子 - 窪川 稲子(さた いねこ - くぼかわ いねこ、1904年(明治37年)6月1日 - 1998年(平成10年)10月12日)は、日本の小説家である。職を転々としたのち、プロレタリア作家として出発し、日本共産党への入党と除名、窪川鶴次郎との離婚などを経て、戦後も長く活躍した。左翼運動や夫婦関係の中での苦悩を描く自伝的な作品が多い。
、佐多稲子、吉屋信子、宇野千代。1935年11月撮影。
、次女の佐多達枝とともに(1936年)
1904年に長崎市に生まれる。出生当時、両親はいずれも学生で十代だったため、戸籍上は複雑な経過をたどっていた。母親を結核で亡くし、小学校修了前に一家で上京、稲子は神田のキャラメル工場に勤務する。このときの経験がのちに『キャラメル工場から』という作品にまとめられ、彼女の出世作となる。上野不忍池の料理屋「清凌亭」の女中になり、芥川龍之介や菊池寛など著名な作家たちと知り合いになる。その後丸善の店員になり、資産家の当主で慶應大学の学生であった
小堀槐三との縁談があり結婚するが、若くして当主となり兄弟間の係争が絶えなかった夫は稲子にも病的な猜疑心を向けるようになり、夫婦ともに精神的に追い詰められた結果二人で自殺を図る。未遂で終わったがその後離婚し、小堀との子である長女葉子を生んで一人で育てる。
最初の結婚に失敗したあと、東京本郷のカフェーにつとめ、雑誌『驢馬』同人の、中野重治・堀辰雄たちと知り合い、創作活動をはじめる。1926年、『驢馬』同人の1人で貯金局に勤めていた窪川鶴次郎と結婚する。そのため、最初は窪川稲子の名で作品を発表した。1928年、『キャラメル工場から』を発表し、プロレタリア文学の新しい作家として認められる。1929年にはカフェの女給経験を綴った『レストラン・洛陽』を発表し、川端康成に激賞された。雑誌『働く婦人』の編集にも携わり、創作活動と文化普及の運動ともに貢献した。1932年には非合法であった日本共産党に入党している。同年、日本プロレタリア文化連盟(コップ)への弾圧により夫の窪川が逮捕、翌年保釈されたが、1935年にはコップ発行の『働く婦人』の編集発行人であった佐多が逮捕、留置所の中で小説を書き続けた。
プロレタリア文学運動が弾圧により停滞した時代には、夫・窪川の田村俊子との不倫もあって、夫婦関係のありかたを見つめた『くれなゐ』(1936年)を執筆し、長編作家としての力量を示した。しかし、戦争の激化とともに、権力との対抗の姿勢をつらぬくことが困難になり、時流に流されていくようになる。戦場への慰問にも加わり、時流に妥協した作品も執筆した。
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