水上 勉|みずかみ つとむ|1919年3月8日 - 2004年9月8日は、日本の小説家。福井県生まれ。社会派推理小説『飢餓海峡』、少年時代の禅寺での修行体験を元にした『雁の寺』、伝記小説『一休』などで知られる。禅寺を出奔して様々な職業を経ながら宇野浩二に師事、社会派推理小説で好評を博して、次第に純文学的色彩を深め、自伝的小説や女性の宿命的な悲しさを描いた作品で多くの読者を獲得。その後は歴史小説や劇作にも取り組む一方、伝記物に秀作を残した。作品の映像化も多い。日本芸術院会員、文化功労者。位階は正四位。
=
福井県大飯郡本郷村(現おおい町)の、佐分利川沿いの集落で棺桶造りや宮大工をしていた家に生まれ。(この時、寺に住み込んで画の練習をしている南画家の服部二柳を見ている)得度して水上集英に改名、室町小学校を卒業し、柴野中学に通う。
しかし修行生活の厳しさに13歳の時に出奔。その後、連れ戻されて等持院に移り、僧名承弁に改名。1933年旧制花園中学校(現・花園中学校・高等学校)3年に編入、等持院の蔵書の小説本を無断で貪り読み文学への関心を持った。等持院住職の二階堂竺源は衣笠貞之助と親しく、等持院には東亜キネマの撮影所があって、撮影の手伝いもさせられ、これらの経験がのちに『雁の寺』、『金閣炎上』の執筆に生かされた。また等持院に立ち寄る宮嶋蓬州や錦織大宗にも接した。中学4年の時に『都新聞』に投稿するようになり、卒業後は寺を出て伯父の下駄屋で働き、むぎわら膏薬の西村才天堂の行商を経て、1937年(昭和12年)、立命館大学文学部国文学科に入学、同年に府庁で満蒙開拓義勇軍への勧誘を行う仕事に就いた後、満州にある国際運輸社の社員となって奉天に渡るが、翌年結核を患い、帰国療養として若狭に戻る。文学書を読み漁り、水上努の名で『月刊文章』『作品倶楽部』に投稿、『月刊文章』で選外佳作となって初めて文章が活字になった。
1940年に、父が駒込で勝林寺を蓬莱町から染井へ移築する作業や、動坂目赤不動(南谷寺)建築のために、東京で仕事をしていたのを頼って上京したが、父はすぐに京都に帰ったため、『作品倶楽部』選者の丸山義二を頼り日本農林新聞に入社。ここで農民文学懇話会の作家たちも間近に見る。また丸山の紹介で同人誌「東洋物語」に参加。そのメンバーの三島正六の紹介で『報知新聞』に入り、そこで和田芳恵の知遇を得て学芸社に移り、文芸書出版の仕事に就き、海音寺潮五郎や武者小路実篤も担当した。さらに印刷会社を経て三笠書房に勤める。この頃「東洋文学」は、情報局の命令で「作家精神」などと合同して「新文芸」となり、その編集にたずさわった。1943年に映画配給会社に移るが、東京都からの助成金を得て郷里に疎開、大飯郡青郷国民学校高野分校に助教として勤める。結核のために第二国民兵役だったが1944年には召集を受けて、京都伏見深草中部43部隊の輜重隊に所属。その後召集解除となって青郷国民学校に戻り、終戦を迎えた。
from wikipedia(名前を用いての自動収集のため、別人の場合もあることをご了承ください)