恩田 陸|おんだ りく|1964年10月25日 - 。青森県青森市生まれ(宮城県生まれとされることもある)。
『六番目の小夜子』(1992年)でデビュー。ホラー、SFなど枠にとらわれず、郷愁を誘う情景描写に定評がある。『夜のピクニック』(2004年)で本屋大賞、『蜜蜂と遠雷』(2016年)で直木賞・本屋大賞を受賞。
1964年(昭和39年)10月25日、青森県青森市で生まれる。1972年(昭和47年)に富山県富山市へ移り、小学2年から5年まで富山市立五番町小学校(現:富山市立中央小学校)に通った。1979年(昭和54年)の中学3年時から水戸市立第一中学校に通い、茨城県立水戸第一高等学校を卒業するまで茨城県水戸市で過ごした。なお両親とも宮城県仙台市出身で、現在も同市に実家がある。恩田の本籍は仙台市にあり、公式プロフィール上も仙台市出身となっている。
小学2、3年生の時にロアルド・ダール『チョコレート工場の秘密』を読み、作家の存在を知る。小学校か中学校の図書室で『少年少女世界推理文学全集』(あかね書房)で、ミステリに出会い夢中になり大きな影響を受ける、新聞部ではエッセイを書いていた。一方で個人誌『すいかずら』を作り好きな詩歌を載せ小説・エッセイを連載したが自分以外には非公開だった。
父がクラシック好きで、自宅には多くのレコードがあり、子供の時に、引っ越しが多かったが、本と音楽が周りにある環境で過ごしピアノを習い、広く音楽を知る先生に学び、大人になった今も「ピアノを聞くのが一番好き」と答えている。
1983年(昭和58年)に早稲田大学教育学部国語国文学科に入学すると、同大のビッグバンドのハイソサエティー・オーケストラに所属してアルト・サックスを演奏した。また2年次にはワセダミステリクラブに所属したが、本格ミステリを読む人がいなかったのでごく短期間だけになる。
1987年(昭和62年)に同大を卒業、卒論は『荷風と東京』。生命保険会社のOLとして働いたが、2年後に過重労働で入院。作家は年配者だという思い込みがあり、いつか遠い先に作家になれたらと思っていたが、復帰後に酒見賢一の『後宮小説』を読み、その才能と、作者の年齢が1歳上であまり違わず、ショックを受け、勤務しつつ半年後に作家活動を開始した。その後も忙しく、本が読めないのが主な不満で、入社後4年で退職した。
1991年(平成3年)、退職後に書き終えた『六番目の小夜子』が第3回日本ファンタジーノベル大賞最終候補作となり、翌1992年(平成4年)の刊行をもって作家デビューを果たした。編集者に再就職を勧められ、不動産会社に勤務。いきなりデビューして修業期間がなかったので、多作することで鍛えようとした。7年ほど兼業作家だったが正社員になり忙しくなり。独立を機に、各社の編集者を招待し、レストランで「営業パーティー」を開催し、分野の違う小説の企画レジュメを約10本配ると、7本ほどが、それぞれ別の出版社に買われた。
かつては飛行機恐怖症で、南米とその遺跡を舞台にした『上と外』でも資料だけで書いていた。2003年(平成15年)、恐怖はあるが機上を自分に強いて、イギリスとアイルランドに基礎取材を兼ねた旅行をして、『「恐怖の報酬」日記 酩酊混乱紀行』を書く。それをきっかけに各国に行き、南米も『NHKスペシャル』の仕事でマヤ・インカ文明を取材し、メキシコ、グアテマラ、ペルーを回り、『メガロマニア あるいは「覆された宝石」への旅』を書く。
2004年(平成16年)、2005年(平成17年)、『夜のピクニック』で、第26回吉川英治文学新人賞、第2回本屋大賞を受賞する。
2006年(平成18年)、『ユージニア』で、第59回日本推理作家協会賞を受賞する。
2007年(平成19年)、『中庭の出来事』で、第20回山本周五郎賞を受賞する。同年江戸川乱歩賞選考委員に就任した。
2017年(平成29年)、『蜜蜂と遠雷』で、第156回直木三十五賞、第14回本屋大賞を受賞する。同作品の直木賞と本屋大賞のダブル受賞、および同作家2度目の本屋大賞受賞は史上初である。
from wikipedia(名前を用いての自動収集のため、別人の場合もあることをご了承ください)