角田 光代(かくた みつよ、1967年3月8日 - )は、日本の小説家、児童文学作家、翻訳家。
神奈川県横浜市出身 から捜真女学校中学部・高等学部を経て早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。大学では学生劇団「てあとろ50'」に所属。大学在学中の1988年、彩河杏名義で書いた「お子様ランチ・ロックソース」で上期コバルト・ノベル大賞受賞。ジュニア小説というジャンルでのデビューだったが、のちにこれは自分が望んでいたジャンルでは無かったと話している。
大学を卒業して1年後の1990年、「幸福な遊戯」で第9回海燕新人文学賞を受賞し、角田光代としてデビュー。1996年に『まどろむ夜のUFO』で野間文芸新人賞を受賞したほか、数度芥川賞の候補に挙がった。2005年、『対岸の彼女』で第132回直木三十五賞受賞。『キッドナップ・ツアー』など児童文学も手がけている。
私生活では、2006年に芥川賞作家の伊藤たかみとの結婚が発表されていたが、2008年に一部雑誌で離婚が報じられる。
学生時代からボクシングを始め、2013年現在も輪島功一のボクシングジムに通っている。
作家になるのを志したのは小学校1年生の時であった。他に特になりたい職業はなかったという阿川佐和子 他|2014|p=47。大学二年の時、初めて小説を書く。角田によれば失恋した直後であり、それを主題としたという阿川佐和子 他|2014|p=47。初めての作品を秦恒平に褒められたため、角田は「いい気になって次々書き始めた」と語っている阿川佐和子 他|2014|p=47。角田は一途に作家になることだけを夢見ており、大学を「職業訓練所」という施設として見ていた阿川佐和子 他|2014|p=48。
海燕新人文学賞を受賞した折、同時に受賞した松村栄子の方が注目され、松村の作品が芥川賞候補になったのを見て、角田は非常に強い羨望を抱いた阿川佐和子 他|2014|p=49。20代後半に差し掛かり、角田曰く、「書いても書いてもあるサイクルから抜け出せない」状態に陥った阿川佐和子 他|2014|p=49。その後、純文学の文芸誌以外の物書きを始め、それが転機となった阿川佐和子 他|2014|p=49。
海燕の当時の編集長からは、「作品が厭世的すぎる。もっと希望のある内容を書け」と長年指摘されていた。角田はそれに薄々理解をしていたが認めたくなかったと語っている阿川佐和子 他|2014|p=50。『空中庭園』に対して、久世光彦がBRIOに書いた書評も転機となったという。久世は『空中庭園』を褒めながらも、最後に「だから何なの?」という指摘をしており、角田は衝撃を受けた阿川佐和子 他|2014|p=50。そして、「薄々理解をしていたが認めたくなかった」ことが、この久世の指摘で一気に分かった、と語っている阿川佐和子 他|2014|p=50。
角田は幼稚園時代、他の子供達よりも体格が小さく、よく喋れず、失禁や鼻水を垂らすなどの行動があった。そのため周りからおかしい子供と思われており、それがコンプレックスであった。このコンプレックスが自身を本好きにさせた理由と角田は自己分析している阿川佐和子 他|2014|p=51。当時は、字はまだ読めなかったので、絵本から入ったという阿川佐和子 他|2014|p=51。昔のコンプレックスは今も残っていると角田は感じており、「いい加減忘れたいのに忘れられない、恨んでいる」「今でもちゃんと喋れている気がしない」「何かできているとしても、普通の人よりはできないという思いがある」と語っている阿川佐和子 他|2014|p=51。
15歳の時に『NUDE MAN』を聞いて以来ライブに通っていたほどのサザンオールスターズのファンである。また、ボーカルの桑田佳祐も角田の小説のファンである。その旨をラジオで語っていた事を知人から聞いた角田は自身の小説と手紙を事務所に送っており、後日桑田は返事として万年筆と本へのお礼が書かれたカードを送っている。この事がきっかけで2012年の桑田のソロの全国ツアー「I LOVE YOU -now & forever-」の横浜アリーナ公演に招待されたり、文藝春秋 2018年10月号での原由子との対談が行われたりといった交流が生まれている。
その他、19歳の時に日比谷野外音楽堂で開催されたRCサクセションのライブを観に行って以来の忌野清志郎のファンであることも公言している。
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